十四夜

風の日。薄い雲が張る晴れの日。葉と葉、波と波の重なる音が、身体を包む不思議な何かであるかのように思わせた。薄月の朝は始まり、待ち合わせのバス停には三匹の猫がいる。そこには高い建物も、低い建物もない。

まだ夜の雨で湿る地面のアスファルト。土と葉の匂いまで混じるかと思うと、そうではなかった。揺れる竹、グラデーションの空。思い通りではない。「綺麗」が美しく堂々としていることが。空と飛んでいくのが「美しい事」であるかのようにしていることが。

 

村にはしきたりがあった。

ひとつに人を待ってはいけないというのがあった。

私は待っていた。

何となく何でもない日を。

目の前を通る二車線の道は、この村と隣町をつなぐために、右から左に、先が霞むほど伸びた。

 

好きでもない本を開いて、三ページだけ読んだ。

カバンの中からひとつ掴んで、それを戻した。

目の前を走った車も、不気味な物のように思えた。

でも何となく屋根の下にいて、壁の近くで立った。

八割が欠落した時刻表。

とうに閉業した村の商店の広告。

現れた雲を見ると、何もかもが悲しくなった。

「嫌なことは嫌って言っていいんだよ」

何か言われた。何が分かる。

 

穴を見ていると、顔から吸い込まれて目を逸らした。

いつも、いつもここで願っているようだった。

鈍く光る空は、まだ月の光を残していた。

息をしていても、永遠とこの沼で、何も無いと。

 

ある十四夜の朝に、人に会ってしまった。

「十四ってなんだと思う」

「十三の次で十五の前」

バスを待っていた私は、意味が分からなかった。

「月で見ると十五は完全。十四は不完全だわ」

「だから?」

「だから美しい」

彼女は私を見ていないし、意味も分からなかった。

 

十四夜の朝。

何も無い日に、視界を時間が悪あがきする。

その間、誰もがあの満月に期待する日。

その夕闇に、何が消えても。

風も、闇も連れ回して君と消えても。

 

「待った?」

彼女は私を見ていない。

「今日は無断に恨まれて気分が悪い」

「何を話すの?」

「愛の話」

本当に悪いんだと思った。

 

村にはしきたりがあった。

ひとつに人を待ってはいけないというのがあった。

十四夜の朝。

その月もやがてどこかに隠れ、雨は激しくなった。

夢を見るのです

夢を見るのです。

私は台車に載せられスーパーを全速力で駆けています。

目的は、騒ぎに乗じてある机の中のテスト用紙をばら撒くこと。

それを仲間が回収すること。

ところが机は発見できず、先生に捕まってしまいました。

仲間はほとんど捕まりました。

泣く人と泣かない人、泣くふりの人。

興味のない人、話す人と話さない人。

台車に載せられた私の七人。

友達ではありません。

 

ショーウインドウに映る私は甲殻類の化物でした。

伊勢海老のようで、背中が、大きくまだらに黒いので

「ゴキブリ」と呼ばれました。

あの特徴的なハサミはなく、腰は山のように曲がっています。

気持ちが悪い。と何度も言われました。

 

走って逃げようとしましたが、すぐ捕まりました。

事情聴取は堂々巡りでうんざりです。

警察もいました。

我々は何もしていません。

トイレに行きました。

「ここのトイレは金がかかっているんだ」

先生は自慢げでした。

用を足していると、先生のいたずらで顔が汚れました。

蛇口で口をゆすいでいると

「なんで泣いている?」

と近づいてきて言いました。

言葉がスムーズに出てきません。

「飼っていた猫と、祖母が死んだ日を思い出すからです」

先生は私の言葉を聞いて頷きました。

私の言葉を堪能しているようでした。

 

仲間は罪を私になすりつけていました。

警察も先生も何も疑いません。

何が辛くて泣いているのか分かりません。

靴底で背中を踏まれます。

死刑。死刑。と何人かの声と共に。

 

 

 

 

 

夜なのに空が高い

太陽と、月の光が昇る日。

レディグレイのおかわりを注げと夜はいいました。

君の気が済むまで空を覆う雲を掴んでいろともいいました。

この雲の端であなたはわたしを見つけるのです。

すべての音がなくなってもこの手を離さないのです。

 

使わないピアノを贈るのでそのメロディを聞かせてください。

わたしか世界に聞かせてください。

「君は夢を見てる」だれかがいいました。

朝のうつくしい朝日が部屋に侵入してきます。

医者を連れてください。猿と散歩します。

 

わたしはすべてを信じるから。

わたしのしたいこともっともっともっと教えて。

 

次にあなたが現れたら、その愛を炎の上で燃やします。

不安をかばんから取り出します。

わたしはすべてを信じるから。

あなたの望みを教えてよ。空高く飛ばしてあげるから。

 

「君は夢を見てる」だれかがいいました。

朝のうつくしい朝日が部屋に侵入してきます。

あなたの望みを教えてよ。

誰も知らない、君にしか分からない、あなたのやつを。

わたしが空高く飛ばしてあげるから。

ネオンで暗く光る空に。

夜なのに。

 

 

 

愛と光と秘密主義の道

帰りの道を、彼女が右に曲がろうと言うので、右に曲がると、そば屋にせんべい屋、まんじゅうを売る店に揚げもの専門店、履きもの屋に帽子屋、中華料理に焼き肉、イタリア料理にしゃれたコーヒー店、そういうものがある雰囲気の無い、なにも無い、家と、家が、生活感の無い家が並ぶだけの長い道が迎えて、十字路も無い、長い一本道なのに、歩いているといつか迷ってしまいそうな、蝶番の紐の少しほどけたみたいなあやうさの上に立つような、そんな気分になって、気分が滅入った。

 

「はやくきなよ」

「また立ち止まって」

「歩きだすのが遅いんだから」

「また俯いて」

「愛してる。愛してる」

 

踊るように、歌うように、愛を歌うように、俺の手を引くように、彼女は歩きだして、何も知らない彼女のうしろを、見ながら、歩きはじめたばかり、長い一本道なのに、迷路を歩いているような、足音は規則的に聞こえるのに、彼女の姿は離れたり、沈んだり、人形のような少女になったり、子供を産んだのに楚々とした感じの損なわれないふうになったり、した。彼女は、それでも動かない家々の中で、光すら不確かで、彼女の言葉だけが確かだった。彼女の言葉だけは、有耶無耶には響かない。

 

「愛してる。愛してる」

 

愛を歌う。それも踊るように。

夜を見上げると、月が簡単に現れないようにして雲に隠れて、その横を、尾を引いた星が翔けて消えた。

 

「愛してる」と呟いてみて、うしろを振り返ると、彼女が空を見上げていた。足は揃っていて、その姿は鮮明に見えた。

 

「はやくきなよ」

 

「愛してる」と呟いてみて、空を見上げると、闇雲に月が覗いた。星はなく、言葉だけが、有耶無耶に響く。

 

 

現代日本版『桃太郎』

 

耳鳴りがした。

それが過去から聞こえるものなのか、あるいは未来から聞こえたものなのか、わたしにははっきりしなかった。

 

山奥のなにもない小屋。わたしは男と暮らしていた。男はわたしを好いていたが、わたしは男を好いてはいなかった。ただ、一緒にいた。理由はなかった。わたし達は長く生きて、くりかえし睦言を交わした。愛され、心に空いた穴を判然としないまま繕っていると、響いた。

 

世界が変わるほどの永遠の中で、男の影は、だんだんと濃くなっていった。耳鳴りは止まなかった。男の挙動にあわせて強弱を変えるだけだった。変わらない山奥では、わたしの影は、だんだんとぼやけた。

 

倍速で進む月日を一日止めて、空を飛んでいると、遥か昔のことを思いだした。わたしに好きな男がいたこと。男もわたしを好いていて、それもたぶん、男の「好き」はわたしと同じ「好き」だった。ただ、男とはどうにもならなかった。わたしは愛しあうことを怖れた。村を救った英雄が、どうしてキジと愛し合えるか、と。男はすぐに死んで、不老不死のわたしだけが生き残った。

 

わたしは永遠と存在して、あれから、言葉から離れた。濁すことも飾ることも呑むことも使うこともなくなった。現も幻もない。わたしの人生は、過去と未来さえも有耶無耶になりはじめていた。

 

そんな時だった。わたしがツイッターに出逢ったのは。鬼を退治し、村を救った英雄"桃太郎"に初めて会ったときの衝撃を、わたしは感じていた。耳鳴りは未来から聞こえていた。わたしは言葉をつぐだけだ。

 

キジ @kjlovepeach

むかしむかし、あるところに、

おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へしばかりに、

おばあさんは川へせんたくに行きました。
おばあさんが川でせんたくをしていると、

ドンブラコ、ドンブラコと、

大きな桃が流れてきました。
「おや、これはいいおみやげになる」
おばあ次

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4月23日

 『あいまいにしないでよ!』

昨日の晩、天音に言われたことが頭から離れず、胸の上を鉛の玉がゴロゴロと転がっているような息苦しさの中、俺は目を覚ました。寝惚け眼をこすりながらカーテンを開けると、塞がった胸の内とは裏腹に、澄み切った青がこちらを覗いていた。

台所の方からは、野菜を切る音が規則的に響いていて、天音が朝ごはんを作ってくれているのが分かった。昨日のこと謝らなきゃ。そう強く思いながら、しかし俺はトイレへ向かった。人間、便意に対しては常に無条件降伏だ。

「うんちいっぱいでた」と、ツイッターに呟く。一見非常識極まりない行為だが、これが俺のいる界隈では普通だ。現実の自分とは切り離した存在として、架空の自分が存在する。現実では端正な顔立ちで彼女持ちの大学生も、その世界では童貞無職の顔面クリーチャーだ。まあ。その世界のおかげで天音と知り合うことができたんだけど。

排便もそこそこに天音に声をかける。

「天音。おはよう」

「おはよう」

「昨日のことごめんね」

「だから。昨日とかそういうことじゃないでしょ」

もういい。と突き放すようなその背中は、しかし微かに震えていた。泣いている。そう気付いた瞬間に、俺は天音を抱きしめた。

「俺には天音しかいないよ」

「うそよっ…」

今にも消え入りそうな声だった。

 「嘘じゃない。下ネタを呟くのはやめるし、ランダムに選んだ女性フォロワーの画像ツイート一覧から私物や体の一部をオカズにオナニーをするのも、もうやめる。」

「ほんと?あっ、んっ…」

 俺は答える代わりにキスをした。天音は恥ずかしがりながらもキスを受け入れ、情熱的で艶めかしい愛の出し入れに注力した。

 「あいまいちゃん。あたしをあいまいにして」

とろけてなくなってしまうような顔で天音が言った。セックスしようってことだろうが、そのセンスはよく分からない。恋愛がここまで人の知能を低下させてしまうのは何故だろう。どうでもいいや。セックスしたいし。

「天音。好きだ」

「あたしも好き」

「愛してるよ」

「「ちゅっ」」

 

〜fin〜

 

そういう夢を見た。

夢だったなんて、とは思わない。鼻は詰まり喉はガラガラで、カーテンを開ければ鉛を張ったような曇り空。薄汚れた窓ガラスには童貞無職の顔面クリーチャーが映っている。そんな現実が受け入れられないだけなんだ。有耶無耶にしてくれ。