①岡陵の屋敷
秋も入口に掛かった頃、私は熱と悪寒を覚えた。
昼は汗が滲むほど熱く、夜は骨に沁みるほど寒い。二、三日の事かと思ったが、ひと月経とうが治らない。町の医者を何軒回っても、どこも診立ては「風邪」だった。いくら薬を飲んでも治らない。何日養生しようが治らない。そんな折、Aを訪ねるように勧められた。
AはX都の岡陵にある古い屋敷に住んでいた。医者ではないらしい。ただ、病人の方からやって来る。巷では野医者などと呼ばれていた。私は半信半疑で訪れた。
門を潜ると、書生に案内され、書斎へ通された。
Aは帳面に異様なほど顔を近付けて読んでいた。私が入ってもしばらくは顔を上げず、言い分を黙って聞いた後「それは寒熱病ではない。瘧鬼だ」と言った。
「何ですか、それは」と、私は聞き返した。
「鬼だよ」と、Aは言った。
私は言葉を失った。馬鹿にしているのかと思った。ただの藪医者か、気が狂っているのか。そんな私の胸中を読み取った様に、Aは壁の方を指差した。
額が掛けてある。
【話せば誤解される。ただし歯車は弁解しない。それでも世界は回っている。】
ドイツの発明家ハインリヒ・クラウゼンの言葉だと言う。誰だかも、意味も分からない。
「だから私はあまり説明をしない」
「説明すると皆、病気だと言う」
「病気だからでしょう」
「そう思うなら、そう思えば良い」
Aは書棚から古い冊子を取り出して、私の方へ投げた。黄ばんだ紙には『瘧鬼行』とある。そこにはこう書かれていた。
熱病に伏せる者の枕元へ、小さな子供が現れる。
それは、猫ほどの背丈しかない。
緑の服に赤い洋袴・朱の靴を履き、髪は双髷に結っている。
この子供が笑いかけると熱が出る。
やがて寒気が来る。
それを繰り返し、そのまま病人は眠り続けた。
「夢の話でしょう」
「夢の話かもしれない」
「はあ」
「夢も病気のうちだからね」
Aはまた帳面に異様なほど顔を近付けた。私はまた返す言葉がなくなった。禅問答の様で、厭になった。
②瘧鬼行
その晩、夜半過ぎ、目が覚めた。
小さな子供が居た。緑の服に赤いズボン、くすんだ朱色の靴を履いている。何やら喋っている様だが、聞こえない。悲しいような、怒っているような、微妙な表情をして、こちらに寄って来る。
私は『瘧鬼行』の話を思い出した。悪寒がした。これが瘧鬼だと、直感した。起き上がって殺そうにも、体が動かない。瘧鬼は微妙な表情で寄って来る。
「貴様は、瘧鬼か」
心底、夢であってくれと願った。あの野医者の言っていた事が正しかったと、認めてしまうのが厭だった。そんな事は冥々知らず、瘧鬼は確かな温度感を携えて、寄って来る。泣いているような、笑っているような、奇妙な顔で寄って来る。
「キイキイ、キイキイ」
ベッドに登ってこようとしたところで、突然、瘧鬼は不気味な声で鳴いた。鳴いて、床に落ちて、尻込みをした。よく見れば、慄いている。泣いている。
「何に慄いている」
意味が分からない。瘧鬼は窓辺の方を見て、慄いている。振り返ると、窓辺には瓜を剥く庖丁が見えた。これは、あの屋敷を出る時、書生に渡された物だった。きっとこれを畏れたのだろう。瘧鬼はキイキイ鳴きながら、私の部屋から出て行った。
次の晩から、私は夜覚めすることがなくなった。
③岡陵の屋敷
屋敷を訪れてから七日が経った頃には、とうとう、熱も悪寒も最初から無かったかの様に治まった。悪夢に魘される夜もなく、食欲も戻った。礼を言うべきかと思って、私はもう一度、岡陵の屋敷へ向かう事にした。
一度しか来ていないのに、バス停を降りてからの変哲ない山道も、間違え様のない物に思えた。沢を渡る為の短い橋も、白く朽ちかけた鳥居も覚えている。岡陵へ向かう獣道も、あの日のままだった。
屋敷は無かった。
草原に、蟻の群がった骨塚が一つあるだけで、それ以外には何も無かった。
私は屋敷が無くなっている事に、あまり驚かなかった。そんな気もした。あの野医者も、書生も、屋敷も無くなっている、そんな気もした。ぽつんと蟻の群がった骨塚が一つある、そんな気もした。
書生へ買った氷菓は、いつの間か溶けてしまっていた。何となく、意味のある行為の様にして、そっと置いた。
帰り際、Aに似た鼻の大きな中年を見掛けたが、書生を連れていなかったので、どうでも良くて、そのまま帰った。
④ネオンサイン
あの不思議な体験から半年が経って、あれだけ嫌だった地元の空気も、別に嫌ではなくなった。明るい月も、キラキラの夜露も、飲み屋のネオンサインも、別に嫌ではなくなった。暗闇を、抜け出したような気になった。
バイクを走らせながら、あの屋敷を思い出した。
「表の医者が『マラリア』と診る物は、全体の3%に過ぎない。残りの97%はこういう物なんだ。だから私はあまり説明をしない」
確か、Aはそう言っていた。
普通は逆だろうが、今では私もそう思う。
気が、狂ってしまったんだと思う。