プロローグ

 

 

これはある蒸し暑い夏、まだ若い彼が見た夢の話。見た目だけでいうなら三十は越しているだろう。が、実のところはまだ二十を過ぎたばかりの青年。彼の半生の経験は――、いやそんなことはどうでもよい。彼はじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(窓の外にはフェンス越しに、一羽の鳥が舞っている。)長々とこの話をしゃべりつづけた。もっとも身ぶりはしなかったわけではない。ぶつぶつと言いながら掌で壁を隠したり、手で払うような動きをした。そのたびに彼の話はまとまりを欠いた。

「河童のいた時代」「目の前の大小」「かげぼうしが追ってくる」僕がこうして写したメモを見返しても、彼が本当に夢の話をしていたのか怪しい。しかし彼の力強い語気の前では「何を言っているんだ」と遮ることは、はばかられた。終始、彼はしゃべりつづけた。

 

序一

 

あの朝に見た夢は、玄関の前で寝ていた私を私自身が起こすところから始まります。いや、朝起きて、玄関の前で倒れている私を見たときは本当に驚きました。着ている服は私のものではないような気がしました。

起こすと彼は「私は貴方のドッペルゲンガーです」と名乗りましたが、私は急なことに狼狽えて、反応に困りました。玄関ドアが開いていることに気付いた私は彼を押しのけその先を見ると、そこには大きな沼が広がり、河童の親子が顔を出していました。驚いたことに、――そこは河童のいる時代だったのです。

街にはビルが見えるのに、なぜか文明を感じません。私は不思議な感覚に包まれるだけで、この光景を前に、夢であるとは気付きませんでした。

 

序二

 

視界は薄紫色に広がって、この夢を見ている間はずっとそうでした。

外は感じたことのないような蒸し暑さと、耳まで鳴り響くような夏蝉のアルペジオで(急に噺家のような身ぶりをした。後になって思うが、これが言いたかっただけなのかもしれない)頭まで沸くように思いました。それはチョコレートの海にとけ込む感覚に近いものがあり、私は、――私は意を決して市街へ向かうことにしたのです。家の前でうずくまったままのドッペルゲンガーは先ほどより小さく見えて、もうどちらが頭の方か分かりませんでした。

市街の手前では門番に止められました。「この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ」それはどこかで聞いたことがありましたが思い出せません。大事なことではないような気もしましたが、その時、私は突然引き返せないところまで来たと思いました。「惨めだ」と独りごちると、近所の女性に声を掛けられました。へたり込んだ私には、顔を上げる力もありません。

「あなたはまだ歩いている途中で、いつでも選択をすることができます。鉄球や鎖で、あなたは縛られていますか」それから、――それから先のことは覚えていません。私はただ目の前の大小が狂っていくように感じたぎり、いつの間にか気を失いました。

 

序三

夢はこうして、ちょうどあなたが私の話を聞いているように、進んでいきます。(彼はなにかを手で払うような動きをして、ここではじめて私の目を見た。)そのうちにやっと気がついてみると、私は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました。大小さまざまの河童は私を気にしていない風に歩いていますが、漏れ出た今にも飛びかかろうという雰囲気に、片笑みを隠せません。ショウ・ウインドウに映る私は少しだけ鮮やかに色づいて、瞳にも濡れるような色男でした。一羽の鳥が空を舞っています。嗚呼、その翼が欲しい。――あのかげぼうしから逃げるためです。

 

後序

 

赤い小さなレンタカーを、――指差す私を、私は俯瞰しています。夢はこうして終わりました。最後に、あなたはどう思いましたか?と聞かれて、僕には答えることができなかった。彼はどうしてこんな夢を見たのだろう。窓の外では、降りしきる雨の向こうで、いやにフェンスが高い。彼はどうしてこんな夢を見たのだろう。残された僕は、降りしきる雨を、振り払った手で消した。